ユルいのヨシアシ 

エーラスダンロスやら発達障がいやら絵やら

ユルいのヨシアシ 

引きこもりGWに考える、移動手段と権利についての話。あくまで、個人的な感想ですよ。

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いろんな考え方や捉え方があって当然ですし、他人の考えのヨシアシを判定する気はないんだけどね。「私の考え」をまとめてみました。


もともと私の母が「足が不自由」であったことから十分に下調べすることが当たり前の中で育ってきたので、「とりあえず行ってみよう・やってみよう」という感覚は理解できない。

私は、あくまでも私は、少なくとも交通機関の障がい者割引というものは

「【普通】に利用できないことに対するサービス」

だと思っています。
「【普通】なら難なくできる利用ができなくて申し訳ないけど、全面的にお手伝いすることは無理なので、料金割引を利用して他の方法も併用しながらご利用くださいね」みたいな感じ。

仮にこれ以上の「この駅を使わなければ著しい不便さや不利益が生じる状況」なのであれば、さらに、「日本の交通事情が障がい者に優しくない状態だと認識している」なら、なおさら事前に相談するだろうな、と思います。私なら。
健常者だって必要があれば仕方なく迂回や遠回りもするし、そもそも旅先で安全にスムーズに行動したければ下調べはしますし。


何かしらの手当てが受給できる程の障がいがあると、実際の動き(行動)が遅くなってしまいます。確かに障がい者が利用できる便数や駅には限りはあるけど、鉄道や路線バスなどが全てその速度に合わせるならば社会全体の生産性が落ちてしまう。福祉や保証は社会がしっかりと成り立っているから存在・存続できるものなので、もし社会全体の生産が少ないのなら福祉も行き届かなくなるという事をわきまえるべき、と考えています。
仮に、便数を増やしたり駅を整備するとなるとその費用や維持費はどうなるのか、どこからでるのか、採算があうのかなどを、せめて単純にでも考えてからものを言うのが社会の一員としての常識であるとわきまえるべき、だと思っています。

我慢して卑屈になるのではなく、わきまえることを含めて自分と社会の双方に合った合理的な方法を考えて行動する。
声をあげるのは権利だし大切なことではあるけれど、弱さを武器や隠れ蓑にするのは違うと思っています。


生まれつきの障害がある方に、「健常者だって身体のどこも痛くなく毎日楽しいばっかりで過ごしている訳ではない」ことを知らせるのは大事。きつくて痛いのに薬を飲みながら働いて、休みの日には家事に追われて、そして納税。
いわゆるなんの不自由もなく生きてそうな人も、実は見えない場所や表に出ない期間にめちゃくちゃ努力してます。

障がいがあろうがなかろうが、誰もが望みさえすれば「自分の行きたいところ」に行けるというわけではない。
そんな世の中は間違ってると思うのならば、まず既存の世界を改善できる立場について、合法的に、全方位の事を考えて変えていけばよろしいかと思います。
声を上げるのならば、人に迷惑をかけない方法で問題を明らかにしていく方が焦点がぼやけないので合理的だと思いますよ。

こんな考えで生活しております。あくまでも個人的な考えです。お腹空いた。